2016/5/15 (敬称は省略します)
世の中いろいろ
アベの憂鬱
●表向きにはファーストネイムで呼び合うほどに親密になったが、それでも二期目の初めのオバマは結構アベには冷たかった。 太平洋を分け分けしようと就任間もなかった中国の習が目覚ましく大きく見えたのだろう。 理想主義者のオバマには習がそう映ったのは仕方がない。 一方のアベは理想よりも現実志向の右寄りの民族主義者の触れ込みに見えた。 取り立てて強いイデオロギーはなく無理に言えば祖父をなぞる日本主義とでもいうべき上書き派とでも呼ぶのがいいかも。 そのオバマがとうとう日本の広島訪問を決断した。 招聘したのは勿論日本だが、71年経ってのアメリカの決断がこのいまに実現したのはまさしくオバマの最後の檜舞台としての設えにはふさわしい。 正直、アベにはいずれくるとは思いしかど、昨日きょうとは思わざりしをの心境だ。 いま自分の政権が3年経って極めて落ち目になってきて気分も優れない中での
ご主人のおもてなしをしなければならない憂鬱さなのだ。 知らない国民の一部は期待感を抱いているようだ。 御用新聞は支持率がアップしたなどと一時的浮つきをよいしょして報道する太鼓持ちになっている。 もちろん一部にはそれ相当の人道的な謝罪を口にする人々ももちろんいる。 しかしアベには正直なところオバマのちょうちん持ちの本当の気持ちが湧いてこないのだ。 なにかアベにとっては広島はこころを揺さぶられる場所ではない。 昨年も真夏の慰霊祭でのあいさつの内容がそれまでのものとほとんど同じで誠意がないと詰られたばかりだ。 靖国のことについて他から横やりが入るとあれほど意固地になくらい反発するのに広島は燃えるものが無い。 ましてやオバマのように非核宣言を世界に発信するような気持ちも持ち合わせていない。 その自分がもうすぐ引退するオバマの先導役をまさかにやるとは思ってもみなかった。 自分がほとほと信仰心、情のない人間であることを日本国民に知られることを本当は一番いやなのだが、本心は偽れないのが本当のところだ。 そのくせ中国や韓国からいろいろと揶揄されるともうそれだけで前後を忘れて自己弁護に走ってしまうのだ。 小さいときから祖父の娘の母親の言いなりで育った刷り込みの所為かもしれない。 その点ではこの年になっても理性的な判断の前に好き嫌いが先に立って自分を制御できないのが嫌になるときがある。 会議でもやじを飛ばしたり要らざる口喧嘩を売ったりするのは生まれもあるが、育ち方の問題で母親を恨むときもある。
妻との間に子供もいないので人間としての感情の自然な成長がどこかで途切れているような怖さを感じないことはない。 どこかいつも冷めていて亡き父親からもお前は情のない奴だといつも言われていた。
ともあれ人類全般や日本国民全体などという広い視野に立つようなことへの普遍的な知性に亘ることは間違っても自分の頭の構造からは沸き上がらない。 だからオバマがプラハで大群衆に向かって原稿なしで滔々と核廃絶を述べたことにはもう月とスッポンの政治家としての差を実は思っている。 今回広島でも最後の歴史に残る名演説を用意するとしたらもう自分は居場所がないほどの
借りてきたネコ状態でそんな自分を比較されるのは死ぬよりはつらいことだ。
だからどうしても核廃絶とかの遠い理想の問題になると分からなくなるし、同じように脱原発などと言われても答えられない。 昔の師匠の小泉元総理の原発廃止なぞはわたしの思考の埒外で仮に祖父に尋ねてもたぶんそんなことは余計なことだと一蹴されるように思えてとても踏み出せない。
一方、やはりオバマにはその気持ちが尽きないほど胸の内にマグマのように渦巻いているのだろう。 そんなことを考えていると、つくづく自分の卑小さには反吐が出そうである。 本当に自分には核廃絶よりは薄っぺらい周りの既得権益のわゆるエスタブリッシュ連中と飲み食いして産官学で武器輸出や原発の輸出などのはなしに花を咲かせている方が気楽でいいのだ。 そしてそれがGDPの600兆へ近づく早道だと言い募るのが核廃絶などよりは言いやすい。 そんな自分はやはり政治屋と言われるのは仕方がないのだろうか。
もう27日にオバマのポチとしてくっついて行く自分をいまから想像してうんざりしているところだ。 だのに自分が手なずけたマスコミはそんなことは斟酌しないで長年の日本の悲願が成ったと至極簡単に喜んでくれている。
それを横目に見ながらその日が近づくのがやはり憂鬱なのだ。 できれば外遊して逃げたいくらいだ。 あの時はお山の大将で晴れの時だ。 日本にいるよりは気分も晴れ晴れする。 はっきり言って自分は祖父と母親が喜ぶ姿だけが生きがいなのだ。 国民のことはその次だとは口が裂けても言えないが。

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