2016年6月15日水曜日

世のなかとんとん


2016/6/14 (敬称は省略します)

世のなかとんとん

首相にいちばん近かった(オトコ)の脳天逆落としのまさか。

●今回の舛添顛末は都知事になる前の新党改革の参院時代にその遠因が醸成されていた。 とにかくこの党にはまさに僅少な4-5人の集まりなのに素性の良くない浪人崩れが隠し砦に閑居して不善を成していたのだ。 政治資金規正法の裏の不実な勉強に励んだのもこの塾時代だろう。 議員の裏街道の実をさらに都知事になってからの2年は、もう小さい砦からオッ出てまさにエレベーターに乗った王様気分で代議士とは遥かに違う別世界で自分を見失ったのだ。 いま彼はまだしも犯罪的ないかさまに手を染めなかっただけは不幸中の幸いと言うべきだ。 一つ間違えばもっと都知事としての仕事の中でこれからは外国との折衝などを通じて、国際政治家の活動中のなかで国内のちゃちな法の網を擦れ擦れに潜るいま問題の事象からもっと入り組んだグローバルな展開の夢破れたことが口惜しいと切歯扼腕の涙がほんとうのところで、やれコドモがいじめにあっているとか解散選挙が無駄だということの涙はまさに世間用に迎合するインチキ涙であることはもう世間もご承知の上と取られて説得力に欠けるほどだ。

今年の4/12以後の本件発生かれを取り巻く政局の流れからは、彼の一切を閉じた拒否の姿勢が余りにも頑なすぎて、都民の反発がこれ以上では自民、いや与党の母屋までに飛び火しかねない恐怖感から国政が都政を乗っ取って馬乗りに被さったことで、これは如何様に舛添が抗弁しても自業自得で世間もこれでは致しかたない。 これを見ても物事の現象形態の裏には、それを引きずる内因的な過去が常にあることを奇しくも舛添は教えてくれている。 いまは過去の積み上げの上にあるのであって、決して過去は断絶したものではない。 当たり前のことであるが、人間はそのことを時としてすっかり忘れがちだ。  あの新党改革の時にいずれの機会にと爪を研いでいた本人もまさかこんなことでドツボにハマるとは・・・その思いの死んでも死にきれない思いはよくわかるが、普通にはこの言葉ははもっと為すべきことが為せなかった、もっといいことの場合に使うのではあるまいか?

舛添の場合のような不埒なことで己のやりたいことが挫折した場合は、悪運が尽きたとでもいう方が正しいのではないか?    

それにしても人間が発することばとはなんと深いものであろうか?

ことばとは言霊というそうだ。 つまりその人の魂を外に放り出すことである。

出てしまったことばはもう取り返せない。 それだけに我々はものを言うときにはそれだけの責任と慎重さを求められる。

それを思えば、現代というのはもうすさまじいほどのことばの連射、ハズーカ

連発である。 もう声のデカさや早口など・・・・どうもその中にドツボがあるようだ。 

昔、日本に来た鄧小平が初めて新幹線に乗っての感想を、まるでくびを後ろに引きつられそうだといった。  とかく余裕のないことばの連発時代である。

同調して大口を連射するのもいいが、時にはことばは言霊を発することだと思い正してみることも大切だ。  むかしから賢い人は存外ものを言わないという。 

舛添はことばの本は政治資金で買わなかったのであろうか?   習字の中国服よりは大切であったと思うが?

次に控えしは誰であろうか?   わたしはウソを連発するアベも優れて近しい有資格者と思っているが、悪運強く似た者同士のふたりだが、アベの方が舛添の首を先に取りに行った形になったのはこれも政治ストーリィの脚本としては

あとのどんでん返しが楽しめてさらに興味が募るのであります。

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